鬼むぅブログ(転生 Ver.1.02)

感じたことを時々綴ってます

MENU

働くことが無条件に肯定される時代は終わった

先日、バーミャンに行った。配膳をしているのは店内を走り回る「ネコちゃんロボット」。体を揺するようにして走行するその動きがかわいくてついつい注文してしまう。注文もタブレット注文。人間との接触ポイントが最小限に抑えられている。コロナ以前、これらの業務をやっていたのは主に外国人労働者だったのだろうが、もはや人手不足は解消されないと判断してロボットを導入したのだろう。

www.itmedia.co.jp

かたやネット上ではお絵かき AI が流行っていて、恐るべきクオリティのイラストが1分で量産されていく。そんなサービスを一般人が使える時代になったのだ。

以前からAIやロボットに対して「人間の仕事を奪う」とネガティブな論調がある。しかし、人間の仕事を奪ってきたのはAIやロボットに限った話ではない。先日読んだ小説には足袋屋のおかみさんが登場したが、いまや足袋屋なんて町中で見かけることはほとんどない。「靴下屋」は足袋屋の仕事を奪ったかもしれない。自動車は人力車や馬車の仕事を奪ったかもしれない。だが今、機械編みの靴下がなければ人は生活に困るのだ。

実際のところ、単純労働がAIやロボットに置き換わるのであれば、人はより生産性の高い仕事をしなければならないだろう。AIやロボットが仕事をしやすいように下準備するような業務も含めて。労働力の対価は上がる。それでWin-Win……なんだろうか。感情面では少し複雑だ。ただ個人的には、人はそれほど熱心に働かなくてよくなるのではないかと思う。現状、多くの人にとって働く意義の大半は糧を得ることにある。しかし、AIやロボットが常に労働力を提供してくれるのなら生活を維持するコストは低くなるはずだ。電話だってネットだって、一昔まえの価格はべらぼうに高かった。

つまり仕事は社会(共同体)への貢献や自己アイデンティティの表現方法に形を変えるのだ。

共同体への貢献というのは少し想像しにくいかもしれない。ゾンビ(作中ではウォーカーと呼ばれる)がまん延し社会が崩壊した後の世界を描く海外ドラマ「ウォーキング・デッド」では、救われた人間が街に着いて一番に言うことがある。「仕事をくれ」。仕事とはすなわち共同体への貢献であり、共同体に貢献しない人間は共同体の構成員としてみなされず、何かあった時に身の安全が保証されないのだ。

社会が社会として不完全だとこういう心配は当然起こり得る。しかし、このご時世、所属できる共同体は無数にあって、そこで失敗してしまえば社会での死を意味する――なんてことはありえない。業界・業種にもよるが、会社や仕事を得る「箱」は共同体としての色合いが濃くなっていくはずだ。

私自身は働くことがおそらく好きだし、働かなくていいと言われたとしても何か探して何かをやってると思う。しかし、世の中には働くことが好きじゃない人達が一定数いる。今はその過渡期で、どこの会社でも仕事が好きで仕方がない人と、いやいややっている人が混ざり合って生きている。そこに日々コンフリクトと違和感が生じ続ける。

厚生労働省の発行した「平成28年版 労働経済の分析 −誰もが活躍できる社会と労働生産性の向上に向けた課題」第3章は「人口減少下の中で誰もが活躍できる社会に向けて」。しかし本当に目指すべきなのは誰もが活躍しなくても成立する社会ではないか。働きたい人が働き、働きたくない人が働かない。単純明快だし正しい感じがする。働きたくないにもかかわらず、働かないと糧を得られない。経済的に先細り感は否めないものの、突き詰めて考えると、そんな人を働かせなければいけない(頑張らせないといけない)システムのほうにエラーがあるのではないか。最近そんなことを思う。

www.mhlw.go.jp

※90日間更新しないと広告が勝手に表示されてしまうらしいのでこの記事を書きました